特定非営利活動法人 グリーンラインを愛する会

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3,数十年ぶりに訪れたグリーンライン

3,数十年ぶりに訪れたグリーンライン


1974年に開通したグリーンラインは、通行車両の減少に伴い、6年後の1980年に無料化され、それと共に荒廃が始まった。タイトなコーナーが多いため、腕と度胸を試したい若者が暴走を繰り返し、産業廃棄物を中心とする不法投棄が横行し、捨て犬や捨て猫が増え、さらに大気汚染を引き金とした松枯れが追い打ちをかけた。

また、徐々に樹木が成長するにつれ、当初は随所で楽しめた瀬戸内海の景観も、次第に失われていった。私が思い出のグリーンラインを数十年ぶりに訪ねたのはその頃である。

その荒廃のすさまじさに息をのんだ。路側はゴミで溢れていた。路面はでこぼこ。ガードレールは醜くねじ曲がり、野犬がうろついていた。そんなグリーンラインを鞆まで走り、県立後山公園に着いた。

開通当初の面影はどこにもなかった。駐車場は穴だらけで、風にゴミが舞っていた。残飯をあさる野犬やカラスが駐車場を占領していた。さらに駐車場のど真ん中を区切るいかついガードレールの構造物・・・。展望台への坂道を上がりながら、たまらない寂しさを感じた。この公園で、ある人は家族の団らんを楽しみ、またある人は恋を語り、美しい星空に感嘆の声を上げた若者達・・・まるでそれが幻か夢の中の出来事のように遠かった。

展望台脇のトイレも、見るも無惨な有様だった。外も中もペンキの落書きだらけ。内部の天井までもが落書きに埋まっていた。蜘蛛の巣が張り、一体どれくらい掃除も、使われることもなかったのか・・・男の私でさえ、そこに足を踏み入れるには勇気が要った。

展望台の階段も随分痛んでいた。展望台自体も落書きがすさまじかった。私の記憶の中にある、あの輝くばかりの白亜の展望台の、堂々としたたたずまいはもうどこにも無かった。「私はあの日から一体どの位生きたんだろう?」そんな目眩に似た感覚に襲われ、思わず手すりを握りしめた。私はまるで浦島太郎になったような気持ちだった。

しかし、その展望台の頂上に立ったとき、私はまた別の感動に突き動かされた。目の前に真っ青な海が広がっていた。飛行機雲にも似た水尾が幾筋も海面に描かれていた。遙か彼方に瀬戸大橋が見え、四国連山が見え、いくつもの島々が浮かんでいた。柔らかな風が、それまで波立っていた私の心を、優しく和ませてくれた。私は胸一杯にその風を受け止めた。それは太陽の光を反射して、様々な光芒を放っていた。

そのとき私に突然の様にこんな思いが湧いた。「ここは宝の山だ!」こんなに素晴らしい自然と景観が、訪れる人も途絶え、荒れ果てたここにまだ残っている。まるで芥溜めに捨てられた宝石のように、確かな輝きを放っている。

私たちはどんなに美しい自然も、景観も、あるいは友情も愛も、富も、それがふんだんに身の回りにあるとき、次第にその貴重さや幸せを感じなくなってゆくのだ。これほどの素晴らしい場所でさえ、当たり前のものとして、私たちはその価値を見失っていたのだ。

そのときの私はまだ、そこまでの荒廃を招いた責任の一端が、私にもあるとは思わなかった。ただただ悲しく、腹立たしかった。「一体行政は何をしてたんだ。何をしてるんだ。」そんな風に思っていた。人々から忘れられたグリーンライン。そこから眺める瀬戸内の海の美しさが、一層私の悲しみと怒りをかき立てた。

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2001年4月撮影の県立後山公園

大陽新聞連載~よみがえれグリーンライン~

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