特定非営利活動法人 グリーンラインを愛する会

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2,グリーンライン誕生~無料化へ~そして荒廃は始まった

2,グリーンライン誕生~無料化へ~そして荒廃は始まった


グリーンラインの正式名称は「県道251号線」である。1974年4月に「後山有料道路」として開通し、水呑町洗谷から熊ケ峰、彦山、後山と続く標高400m前後の尾根を縦走して鞆町後地までを結ぶ延長14.7km。

実はこのグリーンラインの開通当時の状況などを知る資料は余り残されておらず、広島県から戴いた資料で分かる範囲はおよそ以下のようなものである。

 

「目的」

県道福山鞆線の交通量の増大とそれによって起こる交通の渋滞を解消するバイパスとしての機能と、瀬戸内海国立公園にのぞみ、観光開発の期待と福山市地域開発の一環として計画された道路である。

「工期等」

昭和45年1月から昭和49年3月31日までの工期。4月1日供用開始。

「総事業費」

19億6千万円

 

1960年代から1970年代は「観光有料道路ブーム」と言っても良い時期だったように記憶している。同じ時期に全国各地に「何とかグリーンライン」だの「何とかスカイライン」だのと言った観光有料道路が山を削り、森林を伐採して建設された。グリーンラインもそのうちの一つである。これに先立ち現在グリーンラインと接続されている市道、通称「鞆スカイライン」が1962年に開通しており、これがグリーンライン建設のきっかけとなったことは間違いないと思われる。

この道路は当時の福山市長、徳永豊が鞆の後山に登ってその景観の美しさに感動して建設したとも聞いている。またこの場所は国立公園制度の制定に伴い、その候補地選定のためにドイツから学者を招聘し、その学者が瀬戸内海沿岸の景勝地を巡ってこの地に着き、「ここが一番美しい」と太鼓判を押し、それが国立公園第1号の「瀬戸内海国立公園鞆の浦」誕生の切っ掛けになったという逸話もある場所とも聞いている。いずれにしてもマイカーブーム・レジャーブームの波にも乗り、開通当初は料金所に列が出来るほどの活況を呈したという。無論私も青春のひとときをグリーンラインで過ごした一人である。と言っても貧しかった私は、夜10時頃だったと思うが料金所が閉鎖され、無料になるのを待って入った記憶がある。当時の全線通行料金は普通乗用車が450円だった。何台もの車が料金所の手前で行列し、無料になるのを待っていた。懐かしい思い出である。

しかし、ブームの波が引くのは早かった。特に備後人は「新物食い」である。どれほど美しい景観であろうと、一度見てしまうと「もう見た」と再び訪れようとはしない人が多い。特に自然景観や豊かな自然環境に恵まれた地に生まれ、そこで育った人々にとって、「自然の豊かさ、美しさ」はいわば当たり前のものとして、その価値を正当に評価できなかったような気もする。わずか数年で潮が引くように来訪者が減ってしまった。そして6年後の1980年4月についに無料化されて一般県道に格下げされてしまった。この時からグリーンラインのすさまじいまでの荒廃が始まった。

最初は暴走族のグリーンラインへの流入であった。当時の暴走族は「サーキット族」とよばれて、街道をレース場に見立ててその運転テクニックを競うのが主流で、毎夜のようにパトカーとのカーチェイスが繰り広げられた。急速に路面は荒れ、ガードレールは無惨に破壊された。これに松枯れによる森林の荒廃が加わり、来訪者の減少に拍車が掛かった。人気の無くなったグリーンラインは格好のゴミ捨て場となった。家庭ゴミや産業廃棄物だけではない、犬や猫、人間の死体までもが捨てられ、怪奇現象の噂まで広がっていった。

大陽新聞連載~よみがえれグリーンライン~

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