17.「厳しさが人を育てるか?」
丸山孝志の今日の一言は「厳しさが人を育てるか?」と言うことについて、ご一緒に考えてみたいと思います。
少年犯罪などの報道の度に、その背景に「家庭環境」があると指摘されます。家庭環境の内でも、「家庭内暴力」や「放任」が少年の心をむしばむ大きな要因であると指摘されています。
そして「今の親は子供を厳しく叱れない」「学校ももっと厳しく生徒・児童を指導すべきだ」と言うことが言われます。確かにそう言う部分もあると思います。
しかし、厳しくしさえすれば少年犯罪は減少するのか?
子供達は健全に成長するのか?
事はそんなに単純な問題ではないのではないかと思います。
とりわけ日本人はこの「厳しい」という言葉が好きです。
スポーツの世界では「スパルタ式」等と言って、相手を限界までしごき抜いて、
そしてそれがその人が大成した最大の要因であるかのように言う人も、沢山居ます。
最近のテレビの番組にもそんなのがあります。
しかし、私はこの「厳しい」という言葉を誤解している人がとても多いと感じています。相手が自分より弱い立場であることを良いことに、
自分の感情にまかせて相手を叱ったり、相手を追いつめていたぶって、
それで自分が相手に「厳しくしてやっている」等と思っていたりします。
職場などで「ワシは社内で一番厳しい」と自慢する先輩や上司が居ます。
酷いのになると「ワシのしごきで辞めたヤツが○人」等と公言する人まで居ます。
もしその人の言うことが事実だとすると、
その人は辞めていった人の心の傷や挫折感や、
自分が自分の手で閉ざしてしまったその人の未来や生活についての思いなど
全くないのでしょう。
かくいう私も会社の経営者としての立場で、
今まで何十人もの方に辞めていただいています。
中には辞めていただくに忍びない方も沢山おられました。
また、辞めていただいた方が全てだめな人だったかというと
決してそうではありません。
それなのにその人を使いきれない、育てきれない、
そんな申し訳ない思いにいつも苦しみます。
厳しくするには資格と条件があると思います。
資格とは厳しさと等価の愛情を持っていることです。
愛情のない厳しさは「いじめ」です。
またもう一つの資格は厳しさの度合いを相手により状況により、
自分でコントロールできるだけの精神的な成熟をしていることです。
条件の一つは、相手がその厳しさを受け入れることが出来る人間関係や、
信頼関係が出来ていると言うことです。
またもう一つの条件は厳しさが相手の許容限度を超えないことです。
いかなる理由や状況が有ろうと
「自分の厳しさで誰かが辞めた」という事実があるならば、
「厳しく」自分自身に、その厳しさは正しかったのか問いかけてみるべきでしょうし、少なくとも相手の方に対して「申し訳ない」という謙虚な思いを持つべきです。
そうすれば冗談でも「ワシが○人辞めさせた」等とは公言できなくなるのではないでしょうか?
他人に厳しくする前に、まず自分自身に厳しくありたいと思っています。
自分に甘えや、慢心や、自分中心の思いがあり、
他者に対する思いやりや優しさや、寛容さがないのに、
他人に「厳しくする」資格はないと思います。
家庭でも同じです。
愛のない暴力や放任が子供達を傷つけ、蝕んでいることは論を待ちませんが、
ただ子供達を規制し、監視し、
叱りさえすれば良いとも言えないのではないでしょうか?
まず、私たち親が本当に子供達との間でしっかりした信頼関係が出来ているのか?
厳しく自分と向き合っているのか?
自分たちが胸をはって子供達に見て貰えるような生き方をしているのか?
そう言うことを確かめてみる必要があるような気がします。