03.「だろう」の話し
「過ぎたるは及ばざるが如し」と言う言葉があります。何事も程々と言うことが肝要だというわけです。
人間まじめが良いとは言っても、真面目すぎるのは不真面目な人より困ることもある。頑張るのは大切だが、頑張りすぎると何もしない人以上に周りの迷惑になることもある。
私の母が良く「張りすぎた弓は折れる」とか「遊びのない車輪は壊れる」等と言っていましたが同じ意味合いの言葉です。
これは仕事にも通用する諺ですが、ただこの「程」の判断は本当に難しいなと感じることが良くあります。「このくらいだろう」「まあ良いだろう」そう思ったことが失敗の原因になることが良くあります。
例えを車の運転で言ってみるとこうなります。
交通事故の原因の大半が「だろう運転」だと言うことは良く知られています。「とまるだろうと思った」「来ないだろうと思った」「渡れるだろうと思った」
・・・様々な「だろう」の判断の根拠の好い加減さや間違いによって事故は発生しています。皆さんの事故経験を振り返って貰えばよく判るはずです。
そこで私は次のように考えることにしています。
「最悪の事態を避けられる確たる理由と、自信のない時は臆病者になる」
例えば
「こんな狭い道で飛び出してくる奴なんて、まあ居ないだろう」と思うのではなく、
「もし誰か、もしくは何かが飛び出したときに、自分は本当に止まれるだろうか?」
その自信がない時は、私は出来れば路地を避けて広い道に回るか、臆病になってソロソロとその路地を抜けるのです。
仕事も全く同じ考え方をするべきだと思っています。「まあこの位は良いか」と考えるとき、同時に「本当に自分はこの判断を出来る知識や経験を持って居るんだろうか?」
「もしこの判断が間違っていたとき、どういうことが起こるか自分は分かっているだろうか?」
「もしこの判断が間違っていたとき、自分はどうすることが出来るだろうか?」
そう考えて見るのです。そしてその明確な答えを持たないときは、出来るだけの臆病さで事に当たるべきだと私は思います。
でも、これもやはり程度の問題です。いたずらに臆病になって、全てに消極的になってしまえばよいと思っているわけではありません。自分にちゃんとした自覚と、実力と、自信さえ備わっていれば臆病になる必要はないわけです。
また事柄によってはたとえ失敗してもその結果が大したことには成らなかったり、
リカバリーが簡単に出来ることも沢山あります。そう言ったことにまで引っ込み思案になる必要もないです。これもやはり程度の問題ですよね。
私の会社、北斗電機工業有限会社は自動制御の電気関係の仕事をしています。
産業用の様々な設備の頭脳とも言うべき部分を担当しているわけです。
私たちのミスは多くそのまま他人の生命や財産を脅かします。自分の判断の曖昧さで人を傷つけ、あるいは殺してしまってから、「ごめんなさい。大丈夫だと思ったんだけど」では済まないのです。
一生その罪を償い、その罪の呵責と悪夢に苛まれながら生きることになるのです。
普段私たちの想像力はそこにまでは及ばないことが多いのです。
ミスを犯しやすい人はこの想像力や感性のレベルが低いのかも知れません。
やはり想像力や感性を磨き、人間力を付けておかなければならないと強く感じます。
これさえちゃんとしていれば「だろう」だろうと「かも知れない」だろうと、
どっちでも心配は要らないのです。
この力に不安があるからこそ、どちらかの極端に走ってしまうのかも知れませんね。